香川県丸亀市の象徴である丸亀城の城主は誰か。その問いへの端的な答えは、最終的に幕末まで治めた京極氏です。しかし、この日本一の石垣を誇る城の歩みは一筋縄ではいきません。織豊期から江戸初期にかけて、生駒氏によって築城の基礎が築かれ、その後、山崎氏の時代に現在の優美な天守が完成しました。単一の家系ではなく、三つの有力な一族の興亡が、この「石の要塞」には刻み込まれているのです。

築城の狼煙と生駒親正:四国統治の野望が込めた礎

丸亀城の物語は、慶長二年(1597年)に幕を開けます。時の城主は、豊臣秀吉の古参の家臣として知られる生駒親正でした。彼は讃岐17万石を与えられ、高松城を本城としながらも、西讃岐を鎮めるための支城として亀山に築城を開始しました。この時代、城は単なる防御施設ではなく、領主の威信を視覚的に誇示するメディアでもありました。親正が選んだのは、標高約66メートルの亀山を幾重もの石垣で包み込むという、当時としては極めて野心的な設計です。

しかし、生駒氏の時代は長くは続きませんでした。「生駒騒動」と呼ばれる家中のお家騒動が勃発し、寛永十七年(1640年)、生駒家は改易に追い込まれます。彼らが丸亀に残したのは、完成半ばの城郭と、後に「扇の勾配」と称えられることになる石垣の基本構造でした。生駒氏という先駆者がいなければ、今日の丸亀城が持つ圧倒的な威容は存在し得なかったと言っても過言ではありません。土着の勢力を抑え込み、近世城郭としての骨格を作り上げた彼らの功績は、歴史の闇に埋もれさせてはならない重要な一節です。

山崎氏による再建と天守建立:短くも濃密な黄金時代

生駒氏の去った後、丸亀の地に入封したのは肥後富岡から移封された山崎家治です。彼は五万石の領主として、廃城同然となっていた丸亀城の再建に着手しました。特筆すべきは、家治が当代随一の「築城の名手」であったという事実です。幕府から公認を得た彼は、生駒時代の遺構を活かしつつ、さらに洗練された近世城郭へとアップデートを施しました。現在我々が目にすることができる、あの垂直に近い見事な高石垣の多くは、山崎氏の高度な技術集団によって再構築されたものです。

しかし、運命は残酷です。家治の跡を継いだ俊家、そして治頼と続きますが、万治元年(1658年)、治頼がわずか五歳で早世。山崎家は嗣子断絶により改易となります。山崎氏の支配はわずか十七年余り。しかし、この短い期間に彼らは現在の丸亀城の心臓部を完成させました。万治三年(1660年)に完成した現存天守は、実は山崎氏の時代に計画され、次の領主である京極氏の手に渡ってから竣工を見たという、バトンタッチの象徴でもあります。山崎氏の情熱がなければ、丸亀城はただの石垣の山で終わっていたかもしれません。

京極家の入封と統治の完成:名門が磨き上げた城下町の粋

山崎氏の後を受け、播磨竜野から移り住んだのが京極高和です。室町幕府の四職を継承する名門中の名門、京極氏の到来は丸亀に新たな風を吹き込みました。彼らは六万石(後に分知して五万千石)の領主として、明治維新まで七代、約二百年にわたりこの城を守り抜くことになります。京極家にとって、丸亀城は単なる軍事拠点ではありませんでした。それは一族の誇りであり、領民を統べる政治の殿堂でした。

京極氏の時代、城は「完成」から「成熟」へと向かいます。天守の完成を見届けた後、彼らは三の丸に居館を築き、城下町の整備に尽力しました。丸亀名産の「うちわ」が武士の内職から始まったというエピソードは、京極氏の統治下で育まれた文化の厚みを示しています。歴代城主の中でも、京極氏は最も長くこの地の土を象徴し続け、今日に至る「丸亀のアイデンティティ」を決定づけました。彼らの統治があったからこそ、廃城令や戦火の危機を乗り越え、この小さな、しかし気高き天守が今も瀬戸内を望んでいるのです。

丸亀城主を巡る誤解と専門家のアドバイス

丸亀城の歴史を辿る際、多くの人が陥りがちなのが「生駒氏が現在の天守を建てた」という誤解です。生駒親正は確かに丸亀城の基礎を築きましたが、一国一城令により一度は廃城となりました。現在私たちが目にしている美しい石垣や天守の多くは、その後の山崎氏、そして長きにわたり城を治めた京極氏の功績によるものです。

歴史ファンへの専門的なアドバイスとしては、城主の家紋に注目することをお勧めします。場内の至る所に京極家の「四ツ目結」の紋を見つけることができ、彼らがこの地をいかに大切に統治してきたかが理解できるはずです。また、現存十二天守の中で最も小さい天守ですが、それを支える石垣は日本一の総高を誇ります。城主が誰であるかという知識に加え、「なぜこれほど巨大な石垣が必要だったのか」という統治上の戦略的背景を考察することで、より深い城郭探訪が可能になります。

よくある質問(FAQ)

Q1:丸亀城主として最も長く在任したのはどの家系ですか?

京極家(きょうごくけ)です。1658年に京極高和が入封して以来、明治時代の版籍奉還まで約210年間にわたり、7代の城主が丸亀藩を統治しました。丸亀の文化や産業の礎を築いたのは、この京極氏の時代と言っても過言ではありません。

Q2:山崎氏はなぜ短期間で城主を交代したのですか?

山崎氏は1641年に入封し、丸亀城の再築に尽力しましたが、3代目の山崎治頼がわずか5歳で早世し、跡継ぎがいなかったため断絶してしまいました。その後、京極氏が播磨国龍野から移ってきたという経緯があります。

Q3:城主の交代によってお城の造りは変わりましたか?

大きく変わりました。生駒時代の形式をベースにしつつ、山崎氏が近世城郭としての骨格を再建し、最終的に京極氏が天守を完成させました。特に「扇の勾配」と呼ばれる美しい曲線を持つ石垣は、各時代の高度な技術が積み重なった結晶です。

総評:丸亀城を訪れる方へ

丸亀城の主を語ることは、そのまま讃岐の戦国から近代への変遷を語ることに繋がります。生駒氏の先見性、山崎氏の再建への情熱、そして京極氏による安定した統治。どの城主が欠けても、この「石の要塞」は現在の姿で残っていなかったでしょう。天守閣に登る際は、ぜひ歴代城主たちが眺めたであろう讃岐平野と瀬戸内海の絶景を楽しみながら、彼らがこの地に込めた想いを馳せてみてください。