香川県丸亀市のシンボルである丸亀城の石高は、江戸時代の大部分を通じて「六万石」でした。生駒家の時代に築かれたこの城は、山崎家の入封を経て、最終的に京極家が治める地として定着します。標高約66メートルの亀山にそびえ立つ日本一の高石垣は、単なる軍事拠点としての機能を超え、六万石という数字以上の圧倒的な権威と美学を現代にまで雄弁に物語っています。

「石高」という物差しで読み解く丸亀の地政学的価値

江戸時代の武士にとって、石高とは単なる給料の多寡を指すものではありません。それは幕府からの信頼、軍役の規模、そして何よりその家名が背負う「格式」そのものでした。丸亀周辺の地は、もともと讃岐一国を領した生駒親正・一正父子によって近代城郭としての産声を上げます。しかし、生駒騒動による改易という激震が走り、領地は分割。その後を継いだ山崎家治が五万石で入封したことが、現在の丸亀藩の直接的なルーツとなります。

特筆すべきは、この山崎家治という人物の存在です。彼は「築城の名手」として名を馳せ、幕府からの信任も厚い技術官僚的な側面を持っていました。わずか五万石の領主でありながら、これほどまでに巨大な石垣群を再構築できたのは、彼自身の卓越した普請能力と、瀬戸内海の海上交通を監視するという幕府の戦略的意図が合致したからに他なりません。石高という経済指標だけでは測りきれない、軍事要衝としての重みが丸亀城には凝縮されているのです。

京極家の入封と六万石への定着:安定期の幕開け

山崎家が三代で断絶した後、万治元年(1658年)に播磨龍野から京極高和が六万石で入封します。ここから幕末まで、京極氏による統治が続くことになります。六万石という規模は、全国の諸大名の中では「中堅」に位置しますが、丸亀城の佇まいはその枠に収まりきらない凄みを感じさせます。なぜなら、京極家は名門中の名門。バサラ大名として知られる京極道誉を祖に持つ家格の高さが、この城の維持管理にも反映されていたからです。

当時の領内を見渡せば、丸亀藩は金毘羅参りの玄関口としても賑わいを見せていました。多度津や丸亀の港を擁し、物資の集散地として機能したことは、表高である六万石以上の実質的な経済力を藩にもたらしたと推察されます。石垣の反り、いわゆる「扇の勾配」に象徴される優美な曲線美は、限られた予算と石高の中で、いかにして統治者の威厳を領民や他藩に示すかという、京極家歴代藩主の苦心とプライドの結晶と言えるでしょう。

城郭構造が示唆する「六万石」の限界とそれを超える野心

丸亀城を実際に歩けば気づくはずです。本丸そのものは非常にコンパクトであり、天守も現存十二天守の中で最も小さい部類に入ります。これは紛れもなく、六万石という経済的制約が形となったものです。しかし、その足元を支える石垣はどうでしょうか。総高60メートルに及ぶ重層的な石垣は、名古屋城や熊本城といった大藩の城郭にも引けを取らないスケールを誇ります。この「小さな天守と巨大な石垣」というアンバランスさこそが、丸亀城を読み解く最大の鍵となります。

実利を重んじるならば、これほどの石垣を維持するのは六万石の財政にとって大きな負担であったはずです。それでもなお、この壮大な土木建築を維持し続けた背景には、瀬戸内海の制海権を握るという象徴的な役割がありました。西国大名に対する牽制、そして幕府への忠誠心。石高という数字上のスペックを、地形の利と建築技術で補い、何倍にも見せかける。丸亀城の構造には、当時の政治的な駆け引きと、中堅藩が生き残るための「見栄」と「戦略」が、鋭い石の角に刻み込まれているのです。

丸亀城の石高に関する落とし穴と専門家のアドバイス

丸亀城の歴史を紐解く際、多くの人が陥りがちな落とし穴は、「城の規模=藩の石高」と直結させて考えてしまうことです。現存十二天守の一つである丸亀城は、その立派な石垣から大藩を想像させますが、実際には生駒氏時代の17万石から、山崎氏・京極氏時代の5万石台へと変遷しています。

専門的な視点で見れば、丸亀城の特筆すべき点は「5万石という規模に対して、あまりに過剰で強固な石垣を持っている」という点にあります。これは、西国大名に対する牽制という幕府の戦略的意図や、前任の生駒氏が築いた基礎を後の領主が引き継いだという特殊な経緯があるためです。石高の数字だけを見るのではなく、なぜその石高でこれほどの名城を維持できたのかという背景を探ることこそ、歴史探訪の醍醐味と言えるでしょう。

よくある質問(FAQ)

Q1:丸亀藩の石高が時代によって違うのはなぜですか?

丸亀城を含む讃岐の地は、もともと生駒氏が17万3千石で統治していました。しかし、生駒騒動により改易された後、領地が分割されました。その後、山崎氏が5万石強で入封し、続く京極氏も概ね5万1千石から6万石程度を維持しました。このように、領主の交代と幕府による領地再編が石高の変化の主な理由です。

Q2:5万石という規模は、他藩と比べて大きいのですか?

江戸時代の藩の格付けで見れば、5万石は「中規模」といえます。しかし、丸亀藩京極氏は「城主格」として高い格式を誇っていました。石高以上の存在感を示せたのは、海上交通の要所である瀬戸内を監視する重要な軍事的役割を担っていたからです。

Q3:石高と石垣の高さに関係はありますか?

直接的な比例関係はありません。丸亀城の石垣は総高約60メートルに達し、日本一の高さを誇りますが、これは石高の多さゆえではなく、「螺旋式」と呼ばれる特殊な縄張りと、生駒氏時代の野心的な設計の名残です。少ない石高(5万石)でこの巨大な遺構を維持管理し続けた藩の苦労が伺えます。

総評:編集部の見解

「丸亀城は何万石か?」という問いへの答えは、歴史のどの断面を切り取るかで異なりますが、最も一般的な回答は京極氏時代の「5万1千石」となります。しかし、この数字に囚われすぎてはいけません。丸亀城の魅力は、5万石という数字には収まりきらない「日本一の石垣」という圧倒的なハードウェアと、それを守り抜いた歴代藩主の意地が交差する点にあります。数字の裏側にある、江戸幕府の防衛戦略を想像しながら現地を歩くのが、最も贅沢な楽しみ方ではないでしょうか。