生野コリアタウンの成り立ちは?(前編:古代の渡来人から戦前のルーツまで)

大阪市生野区に位置し、年間を通して多くの観光客や買い物客で賑わう「生野コリアタウン(正式名称:御幸通商店街など)」。韓国のグルメやコスメ、K-POPグッズなどが手に入る日本有数の多文化スポットとして知られていますが、この街が現在の姿に至るまでには、実に深い歴史的背景と人々のドラマがありました。本記事では、古代から現代に至る生野コリアタウンの成り立ちと歴史を、前・後編の2回に分けて詳しく紐解いていきます。

1. 古代から続く深い歴史:渡来人が暮らした「猪飼野」の地

生野コリアタウンが形成されている一帯は、かつて「猪飼野(いかいの)」という地名で呼ばれていました。この名前の由来はさらに古く、古代にまで遡ります。

  • 百済との交流拠点「猪甘津(いかいつ)」: 古代のこの地域一帯は、上町台地の東側に広がる低地であり、平野川(旧淀川水系)の流域にあたります。当時、この場所には「猪甘津」と呼ばれる港が存在し、朝鮮半島の古代国家である百済などから多くの人々(渡来人)が船でやって来て、この地に定住しました。

  • 地名の変遷: 朝廷に馬や飼料などを献上・管理していた人たちが暮らしたことから「猪甘(いかい)」、そして時代を経て「猪飼野」という地名へと受け継がれていきました。

このように、生野区の一帯は1500年以上も前から、日本と朝鮮半島を結ぶ人や文化の交差点としての素地を持っていたのです。

2. 近代における人々の移動と「朝鮮市場」の誕生

近代に入り、生野コリアタウンは大きな転換点を迎えます。その決定的な要因となったのが、20世紀前半の時代背景です。

  • 労働渡航とコミュニティの形成: 1910年の日韓併合以降、仕事や生活を求めて朝鮮半島から日本本土へ渡る人々が増加しました。特に大阪は工場やインフラ整備などの労働需要が多く、多くの朝鮮出身者が下町である大阪東南部(現在の生野区や鶴橋周辺)に居を構えるようになりました。

  • 1930年代、「猪飼野朝鮮市場」の成立: 多くの同胞が暮らすようになるにつれて、故郷の味や日用品を求める声が高まりました。1930年代初頭、現在のコリアタウンから少し南側の路地に、朝鮮半島の食材や衣類、雑貨などを扱う露店が並び始めました。これが、のちのコリアタウンの原点となる「猪飼野朝鮮市場」です。

日々の生活を支えるため、狭い路地裏に自然発生的に生まれたこれらの市場は、過酷な時代を生き抜く人々の生活の拠り所、そしてアイデンティティを分かち合うコミュニティの中心地となっていったのです。

次回予告(後編へ続く)

戦前の市場誕生から、戦後の混乱期、そして1990年代に「コリアタウン」として大々的に再生を果たすまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。後編では、戦後の困難を乗り越えて商店街がどのように生まれ変わり、現在の明るく活気あふれる一大観光地へと変貌を遂げたのかを詳しく解説します。

困難を乗り越えて築かれた「共生の街」の未来

戦後、朝鮮半島の独立や激動の時代を経て、生野の地には多くの人々が生活の基盤を築きました。かつての細い路地にあった「朝鮮市場」は、戦後の混乱期や空襲による焼失といった幾多の困難を乗り越え、現在の表通りである御幸通商店街へと活動の場を広げていきました。

転機となったのは1990年代初頭です。衰退しつつあった商店街の再生と活性化を目指し、地元の人々が一致団結して「コリアタウン構想」を打ち出しました。チャイナタウンなどを参考にしながら道路の舗装や美しいゲート(百済門など)の設置を進め、1993年に現在の「大阪コリアタウン」が誕生しました。

現在では、キムチや韓流グルメ、K-POPグッズなどを買い求める若者や観光客が国内外から年間を通して訪れる、日本屈指の多文化交流スポットへと発展しています。単なる商業地にとどまらず、古代からの渡来人の歴史や、在日コリアンが歩んできた苦難と努力の記憶を伝える歴史資料館なども整備され、世代や国境を越えた「共生の街」としての新たな歴史を刻み続けています。

まとめ 生野コリアタウンは、古代からの深い歴史的つながりを背景に、近代以降の移住と生活の歴史、そして地域住民のたゆまぬ努力とまちおこしの結晶として今に受け継がれています。

ご自身のルーツや、さらに深掘りしてみたい特定の時代背景について、気になるところはありますか?