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結論から申し上げれば、丸亀城の土台を築いたのは生駒親正・一正親子であり、現在我々が目にする日本一の高石垣と鎮座する天守を完成させたのは、山崎家治と京極高和の二氏です。単一の人物が一代で成し遂げたわけではなく、戦国から泰平の世へと移り変わる激動の時代背景が、この「石の要塞」を幾重にも塗り替えていったのです。単なる観光地としての城郭ではなく、権力の遷移と美意識の結晶として、その成り立ちを紐解いていきましょう。
生駒氏による「亀山」の開拓と一国一城令の悲劇
慶長二年、豊臣政権下で讃岐一国を治めていた生駒親正が、高松城の補助的な役割を果たす「支城」として亀山に築城を開始したのが丸亀城の萌芽です。当時の生駒氏は織田・豊臣と渡り歩いた実力者であり、瀬戸内海の制海権を意識した戦略的要衝としてこの地を選びました。しかし、城郭史においてこれほど数奇な運命を辿った城も珍しいでしょう。元和の一国一城令という冷徹な法執行により、完成からわずか数年で丸亀城は一度「廃城」の憂き目に遭うのです。建物は取り壊され、石垣だけが静かに時代の変遷を見守る廃墟のような時代が続きました。生駒氏の時代は、いわばこの城の「プロローグ」に過ぎません。その後の生駒家自体の改易というスキャンダラスな幕引きが、皮肉にも丸亀城を次なるステージへと押し上げることになります。
山崎家治が注ぎ込んだ「石垣の魔術」と西国への睨み
寛永十八年、肥後富岡から入封した山崎家治こそが、現代の丸亀城の「骨格」を作った真の巨匠と言っても過言ではありません。家治は幕府から「西国大名への監視役」という極めて重いミッションを帯びてこの地にやってきました。彼に与えられたのは、再築のための銀三百貫という破格の補助金です。「石垣の山崎」との異名を持つ彼が、廃城同然だった亀山をどう変貌させたか。特筆すべきは、扇の勾配と呼ばれる特有の曲線美を持つ高石垣です。四層に重なり、総高六十メートルに達するその威容は、単なる防御施設を超えた「徳川の威光」の誇示に他なりません。家治はわずか数年の在任期間中に、現在の縄張りの大部分を完成させるという驚異的なバイタリティを見せました。彼がもし別の領地に赴いていれば、これほどまでに洗練された垂直の美学は誕生していなかったはずです。
京極氏の継承と、現存天守という「最後のピース」
山崎氏がわずか三代で断絶した後、万治元年に入封したのが京極高和です。ここから幕末まで続く京極家の治世こそが、丸亀城を「完成形」へと導きました。現在、国の重要文化財に指定されている三層三階の天守は、京極氏の時代である延宝八年に完成したものです。面白いのは、その規模のコンパクトさです。石垣がこれほどまでに巨大で威圧的であるのに対し、天守そのものは非常に小ぶりで、どこか慎ましささえ感じさせます。これは、幕府に対する恭順の意を示す政治的ポーズであったという説が有力です。「土台は最強、頭脳は冷静」というアンバランスな美学。京極家は、山崎家が作り上げた堅牢なハードウェアに、現存天守という唯一無二のソフトウェアを組み込むことで、戦うための城から、統治と象徴のための城へと昇華させたのです。誰が作ったかという問いに対し、山崎の剛毅さと京極の知性の融合であると答えるのが、最も事実に即しているでしょう。
丸亀城建設における注意点とエキスパートの視点
丸亀城の歴史を紐解く際、多くの人が陥りがちなのが「生駒氏と山崎氏、京極氏の役割を混同してしまう」という点です。現在の白石の城郭を完成させたのは山崎氏ですが、その基礎となる亀山を選定し、初期の縄張りを行ったのは生駒親正・一正親子であるという重層的な歴史を理解することが重要です。
また、丸亀城の最大の特徴である「扇の勾配」を持つ石垣を鑑賞する際は、単に高さを眺めるだけでなく、「石材の加工技術の変遷」に注目してください。山崎氏時代に築かれた石垣と、その後の修築による石垣では、打ち込み接ぎや切込み接ぎの精度に細かな違いが見られます。エキスパートの間では、特に「三の丸北側の石垣」が、その曲線美と技術力の結晶として最も高く評価されています。現地を訪れる際は、北西方向から見上げる角度が、石垣の反りを最も美しく捉えられるポイントです。
丸亀城に関するよくある質問(FAQ)
Q1:丸亀城を築いたのは具体的に誰ですか?
A:主に3つの家系が関わっています。1597年に生駒親正・一正親子が築城を開始しました。その後、一時期廃城となりましたが、1641年に入封した山崎家治が現在のような総石垣の近代城郭へと再建しました。山崎氏が断絶した後は京極高和が引き継ぎ、三の丸や現存する御殿、天守(1660年完成)を整備しました。
Q2:なぜ丸亀城の石垣はあんなに高いのですか?
A:丸亀城は標高約66メートルの亀山を利用した平山城ですが、防御力を極限まで高めるために、山全体を覆うような高石垣が築かれました。特に山崎家治は「築城の名手」として知られ、幕府の許可を得て最新の土木技術を投入したため、日本一の石垣の高さを誇る要塞が誕生したのです。
Q3:現存する天守も山崎氏が作ったのですか?
A:いいえ、現在の天守は京極氏の時代(1660年)に完成したものです。日本に12しか残っていない「現存天守」の一つであり、規模は比較的小ぶりですが、唐破風や千鳥破風を備えた格式高い意匠が特徴です。山崎氏の急な改易により、京極氏がその意志を継ぐ形で完成させました。
編集部の総評
丸亀城は、一人の英雄によって短期間で作られた城ではなく、生駒・山崎・京極という三家が、数十年をかけてバトンを繋ぎ完成させた「執念の結晶」と言えます。特に山崎家治による石垣の設計は、当時の軍事技術の到達点を示しており、現代の私たちが目にしているのは、江戸時代初期から中期にかけての最高峰の建築美です。高さのみならず、その優美な曲線には、職人たちの高度なプライドが込められています。
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