ペリー提督は日本人ではなかった
「ペリー提督は日本人でしたか?」という質問に対しては、答えは明確にいいえです。ペリー提督、正式にはマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew C. Perry)は、19世紀のアメリカ合衆国海軍の提督であり、日本人ではありませんでした。
1853年、黒船の艦隊を率いて浦賀沖に現れたペリーは、当時の日本に大きな衝撃を与えました。彼の目的は、鎖国の日本を強制的に開国させること。翌1854年、日米和親条約が結ばれ、下田や函館が開港されることになりました。このとき、ペリーは下田を訪れ、現地の役人である黒川嘉兵衛と具体的な条約実施について協議を行いました。
一方、この時期、長州藩の志士・吉田松陰は、国を憂い、海外の情勢を学ぶため、ペリーの船への密航を試みます。しかし、当時の米国側の記録には、「名も知れぬ若者の奇妙な行動」としてさりげなく記されている程度で、松陰はまだ誰にも知られていない存在でした。それでも、彼の行動はやがて明治維新へとつながる大きな一歩となるのです。
ペリーはあくまでアメリカの使者でしたが、彼の来航が日本の近代化の幕開けを告げたのは事実です。そして、その波紋の中で、松陰のような若者が歴史の表舞台に登場していくことになります。
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