大阪市生野区がなぜこれほど多くの韓国・朝鮮人にルーツを持つ人々が暮らす街となったのか、その歴史的背景を紐解くとき、日本の近代化や植民地支配、そして激動の昭和という時代の流れを切り離して考えることはできません。生野区、かつての「猪飼野(いかいの)」と呼ばれた地域を中心に、コリアタウンが形成された背景には、単なる偶然ではなく、労働力不足や交通網の発達、さらには朝鮮半島南部からの渡航という地理的・歴史的な必然性がありました。
本記事では、大正時代から戦後、そして現代に至るまで、生野区がたどった歩みを詳しく解説し、なぜこの街が日本における最大級のコリアンコミュニティへと発展したのか、その真相に迫ります。
1. 大正期における労働者の流入と「猪飼野」の形成
生野区に多くの韓国・朝鮮人が暮らすようになったルーツは、大正時代にまで遡ります。当時、「大大阪」と呼ばれ、急速な工業化を遂げていた大阪市では、金属加工、ゴム工業、土木事業などの分野で深刻な労働力不足に直面していました。
特に生野区の東部を流れる平野川の改修工事や、周辺の中小工場での働き口を求めて、当時日本統治下にあった朝鮮半島から多くの人々が渡航してきました。なかでも、済州島と大阪を結ぶ定期船(「君が代丸」など)が就航したことにより、済州島出身者が急増しました。彼らの多くがこの地域に定住し、地元のインフラ整備や産業を支える基盤が作られていったのです。
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