結論から言えば、丸亀城は生駒親正が築城を開始し、山崎家治が城の骨格を完成させ、そして京極高和以降の京極家が幕末まで統治した「三家三様の魂」が宿る城です。単一の英雄が作り上げた城というより、時代に翻弄されながらも、瀬戸内を望む亀山の地に石垣を積み上げ続けた男たちの情熱の集大成と言えるでしょう。現在、私たちはこの日本一の石垣の高さを誇る名城を、香川県丸亀市の誇りとして見上げています。

断崖に刻まれた生駒・山崎・京極の三代記:城主交代がもたらした奇跡

丸亀城の歴史を紐解く際、まず触れなければならないのが、豊臣政権下で讃岐一国を任された生駒氏の存在です。生駒親正が、高松城を本城、ここ丸亀を支城として選定したことが、全ての始まりでした。しかし、一国一城令という理不尽な時代の荒波に呑まれ、一時期は廃城の憂き目に遭います。ここまでの話なら、よくある地方の城跡物語で終わったはずです。しかし、運命は丸亀を放っておきませんでした。生駒家のお家騒動による改易後、西国大名に対する「睨み」を効かせる要衝として、肥後から石垣築造の名手・山崎家治が5万石で入封します。家治は幕府から銀300貫を借り受け、今私たちが目にする驚異的な曲線を描く石垣、いわゆる「扇の勾配」の基礎を築き上げました。わずか三代で山崎氏が断絶すると、播磨から名門・京極氏が入り、ようやく平穏な治世の中で天守が完成を見ることになります。丸亀城は、まさにこの三氏のバトンタッチによって磨き上げられた芸術品なのです。

石垣の名手・山崎家治が施した、防御を越えた「美」の設計思想

丸亀城の真の主役は、天守ではなく石垣であると断言して差し支えありません。特に山崎家治が心血を注いだ高石垣は、単なる防御施設を超越した威圧感と美しさを兼ね備えています。総高約60メートルに及ぶ石垣群は、麓から頂部にかけて垂直に近い角度へと変化する「扇の勾配」を完璧なまでに体現しています。なぜ、これほどまでの規模が必要だったのでしょうか。当時の地政学的リスクを考慮すれば、瀬戸内海の制海権を握ることは、九州や中国地方の諸大名に対する強力な抑止力となりました。家治は、武士の意地と最新の土木技術を融合させ、敵を阻む壁としてだけでなく、領民に見せつける「権威の象徴」としてこの城を再定義したのです。野面積みから打込接ぎへと進化する石垣の積み方一つとっても、城主たちがどれほどこの地の地質と向き合い、崩落の恐怖と戦いながら、恒久的な城郭を目指したかが克明に刻まれています。この石の積み重ねこそが、文字通りの意味で丸亀のアイデンティティを形成していきました。

現存天守の極致:三層三階という慎ましさに隠された「名門の自負」

石垣の圧倒的なスケールに反して、山頂に鎮座する天守は驚くほどコンパクトです。万治3年に京極氏によって完成されたこの三層三階の天守は、現存十二天守の中でも最小クラスに分類されます。しかし、この「小ささ」こそが、江戸時代という成熟した社会における城主のあり方を物語っています。戦国時代の生き残りのような巨大な天守は、もはや泰平の世には不要でした。京極家は、徳川家との深い縁故を背景に、華美な装飾や巨大さで誇示するのではなく、古風ながらも気品あるデザインを選び取りました。唐破風千鳥破風を巧みに配置した外観は、どの角度から見ても絵になるよう緻密に計算されています。これは、軍事拠点としての機能から、政治・文化の象徴へと城の役割がシフトした歴史的瞬間を象徴しています。私たちが今日、本丸に立ち天守を仰ぎ見る時、それは単なる古い建物を見ているのではありません。三度の大きな主替えを経て、最終的にこの地に根を下ろした京極氏が、讃岐の風景の一部として調和させた「美学」を体験しているのです。

丸亀城主を巡る共通の落とし穴と専門家のアドバイス

丸亀城の歴史を辿る際、多くの人が陥りがちなのが「生駒氏が今の完成形を築いた」という誤解です。確かに生駒親正が築城を開始しましたが、一国一城令により一度は廃城の危機に瀕しています。現在私たちが目にしている日本一の高石垣や鎮座する天守は、その後の山崎氏から京極氏へと引き継がれた大規模な改築の成果であることを忘れてはなりません。

専門家としての視点では、単に「誰が建てたか」という点だけでなく、「なぜ京極氏がこれほど長く治めたか」に注目することをお勧めします。万治元年から明治時代まで、約210年もの長きにわたり京極氏がこの地を治めたことで、丸亀の城下町文化は成熟しました。城を訪れる際は、石垣の積み方の違い(切り込み接ぎや打ち込み接ぎ)を観察してください。そこには、歴代城主たちが注いだ情熱と、時代の変遷が刻まれています。

丸亀城に関するよくある質問(FAQ)

Q1:結局、一番長く城主だったのは誰ですか?

京極家(きょうごくけ)です。1658年に山崎氏が改易となった後、播磨国龍野から京極高和が着封しました。それ以来、幕末の京極朗徹まで7代にわたって約210年間、丸亀藩の主としてこの城を守り続けました。丸亀城=京極氏というイメージが強いのは、この統治期間の長さが理由です。

Q2:山崎氏は丸亀城で何をしたのですか?

山崎家治は、廃城寸前だった丸亀城を現代に残る壮大な姿へと再構築した立役者です。1641年に入封した後、幕府の許可を得て大規模な改修を行い、特に現在も称賛される「扇の勾配」と呼ばれる美しい曲線を持つ高石垣の多くを整備しました。今の丸亀城の骨格を作ったのは山崎氏と言えます。

Q3:現存天守はいつ建てられたものですか?

現在の天守は1660年(万治3年)、京極高和の時代に完成したものです。高さは約15メートルと小規模ながら、全国に12しか残っていない「現存天守」の一つとして極めて高い歴史的価値を持っています。京極氏が完成させたこの天守は、丸亀のシンボルとして今も市民に愛されています。

編集部の総評:丸亀城は「歴史のバトン」が繋いだ名城

「丸亀城は誰のお城か?」という問いに対し、私たちは「生駒氏が種をまき、山崎氏が形を作り、京極氏が花を咲かせた城」であると結論付けます。特定の誰か一人の功績ではなく、それぞれの時代を担った大名たちが、瀬戸内を望むこの要衝の地に知恵と技術を積み上げてきた結晶なのです。標高66メートルの亀山にそびえ立つその姿は、まさに讃岐の歴史そのものと言えるでしょう。