古代日本の防衛ライン「三関」とはどこにあったのか?(前編)

「三関(さんげん/さんかん)」という言葉を耳にしたとき、それが日本のどこを指すのか、正確に答えられる人は歴史ファンでも限られるかもしれません。

古代の日本において、都(畿内)を守るために国家が最重要拠点として設置した三つの関所、それが三関です。時代の変遷によって対象が変わりますが、一般的に最も重視された奈良時代初期の体制では、以下の3つの関所を指していました。

  • 鈴鹿関(すずかのはね・すずかのせき)伊勢国(現在の三重県亀山市)

  • 不破関(ふわのはね・ふわのせき)美濃国(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)

  • 愛発関(あらちのはね・あらちのせき)越前国(現在の福井県敦賀市)

なぜ、この場所に「関所」が必要だったのか?

当時の律令国家にとって、これら三つの関所は単なる交通の取り締まり場所ではありませんでした。東海道・東山道・北陸道という、地方から都へと通じる主要な幹線道路の出入り口にあたり、「国の安全保障を左右する最大の防衛線」としての役割を担っていました。

特に、天武天皇元年(672年)に起きた古代最大の古代内乱「壬申の乱」を契機として、その戦略的重要性は飛躍的に高まりました。東国から押し寄せる軍勢や、逆に都から反乱者が東国へ逃亡するのを阻止するため、国家の非常事態(天皇の崩御や大規模な反乱など)が起きるたびに、朝廷から「固関使(こげんし)」と呼ばれる使者が派遣され、厳重な封鎖が行われたのです。

平穏な日常を取り締まる平時とは異なり、国が揺らぐ危機において、三関の存在感は絶対的なものでした。

平安時代における三関の移り変わり

日本の都が奈良(平城京)から京都(平安京)へと移ると、交通網の変化や政治的な理由から、三関の顔ぶれにも変化が生じました。北陸道の「愛発関」がその役割を終え、代わりに近江国(現在の滋賀県大津市)にある「逢坂関(おうさかのはね・おうさかのせき)」が新たな三関の一つとして組み込まれることになります。

Point: 平安時代以降、文学や和歌の舞台としても数多く登場する「逢坂の関」は、畿内の東の玄関口として非常に重要な意味を持つようになりました。

このように、三関がどこを指すのかは「どの時代の歴史的局面を見据えるか」によって異なりますが、一貫して言えるのは、それらが日本の中心地を守るための「要塞」であったという点です。

後編では、それぞれの関所が現在どのような姿こそしてこに眠っているのか、具体的な遺構や現在の所在地についてさらに詳しく紐解いていきます。

歴史のなかで日本の境界線を守り続けたこれら「三関」の中で、あなたが最も現地を訪れてみたいと思う関所はどこですか?

歴史的背景と「関東・関西」の語源

古代の日本において、畿内(都の周辺)を守るために非常に重要な役割を果たしたのが、鈴鹿関(三重県)不破関(岐阜県)、そして愛発関(のちに逢坂関)の三つの関所、すなわち「三関(さんげん/さんかん)」です。これらは単なる交通の取り締まりだけでなく、国家の重大事や反乱を防ぐための軍事的な要塞として機能していました。

実は、私たちが普段何気なく使っている「関東」や「関西」という言葉の語源も、この三関に深く関係しています。不破関や鈴鹿関などの「東」にある地域を「関東」、「西」にある地域を「関西」と呼んだことが、その言葉の由来とされているのです。現代の地理的な感覚とは少し異なりますが、日本の歴史を紐解く上で欠かせない重要な境界線でした。

現在、それぞれの跡地には史跡や記念公園が整備されており、当時の面影や歴史ロマンを感じることができます。古代の人々が通行手形を手に往来した道のりに思いを馳せながら、周辺の歴史スポットを巡ってみるのもおすすめです。歴史の教科書で目にする言葉の「本当の場所」を知ることで、日本の歴史や地理への興味がさらに広がることでしょう。

古代の三関の中で、現在も関ヶ原町としてその名や地跡が特に有名で、資料館などもあって訪れやすい「不破関」についてもっと詳しく知りたいですか?