東京を代表する一大コリアンタウンであり、韓流カルチャーやグルメの発信地として連日多くの若者や観光客で賑わう「新大久保」。駅を降りれば、立ち並ぶハングル文字の看板や、食欲をそそる韓国料理の香りに包まれ、まるでソウルの街にワープしたかのような活気を感じられます。

では、この新大久保エリアに韓国人が多く住み始め、現在のような「コリアンタウン」としての形が作られたのは、一体いつ頃からなのでしょうか?

本記事の前編では、新大久保が現在の姿に至るまでのルーツと、コリアンタウン誕生の背景にあった歴史的な変遷を詳しく解説します。

1. 新大久保と韓国人の歴史的つながりの始まり

新大久保エリアと韓国の人々との結びつきは、戦後間もない時期や高度経済成長期にまで遡ります。

  • 戦後の移住と生活基盤の形成: 戦前・戦後を通じて、日本で生活基盤を築く在日コリアンや韓国からの渡航者が徐々に増えていきました。

  • 新宿という立地と工場の影響: 1950年代、現在の新宿区周辺に大手企業(ロッテなど)の工場や関連施設ができたことなどをきっかけに、周辺エリアで働く韓国出身者が増加したと言われています。

  • 比較的安価な家賃とアクセスの良さ: 新大久保・大久保エリアは、都心(新宿)に程近いにもかかわらず比較的家賃相場が安く、外国人が住まいを借りやすい地域でした。こうした住環境の良さが、その後のコミュニティ形成の土台となります。

このように、初期段階の新大久保は、観光地というよりも「都心で暮らす外国人のための生活インフラ」としての側面が強いエリアでした。

2. 1980〜1990年代:「アジアタウン」への胎動

新大久保が本格的なエスニックタウン、そして韓国人街としての色合いを濃くしていくのは、1980年代から1990年代にかけてのことです。

  • 歌舞伎町との密接な関係: バブル期を含め、隣町の歓楽街である歌舞伎町で働く外国人労働者が急増しました。その多くが、職を求めて来日した韓国人や中国人でした。

  • 生活密着型店舗の誕生: 働き手が増えたことに伴い、彼らが母国の食材を手に入れたり、故郷の味を楽しんだりするための韓国食材店や飲食店が、大久保通りや職安通り周辺にポツポツと姿を現し始めます。

  • メディアでの紹介: 1990年代の終わり頃になると、多様なアジア系住民や店舗が集まる街として、雑誌などで「エスニックタウン」や「リトル・ソウル」といった名称で取り上げられるようになりました。

この時期はまだ、一般の日本人が「観光や遊びに行く場所」として新大久保を訪れることは少なく、あくまで一部のアジアカルチャー好きや、在日外国人向けのディープなローカルエリアでした。

3. 転換点となった1990年代末〜2000年代の足音

1990年代末から2000年代の幕開けにかけて、新大久保の街並みはさらに大きな変化を迎えます。韓国系店舗の数は、1990年代末の約100軒から、2000年代前半には約300軒へと急増しました。中心地も、歌舞伎町に近い職安通り側から、より開けたJR新大久保駅前の大久保通り側へとシフトしていきます。

そして、この着実な下地があったからこそ、のちの「冬のソナタ」に代表される歴史的な韓流ブーム(2003年〜)が起きた際、新大久保は一気に「韓流の聖地」として爆発的な進化を遂げることになります。

(後編へ続く)

韓流ブームと現代の新大久保の進化

2000年代に入ると、新大久保の歴史を大きく変える転機が訪れます。2002年の日韓ワールドカップや、翌2003年に大ヒットしたドラマ『冬のソナタ』に代表される第一次韓流ブームです。これにより、それまで生活圏であった街は、日本全国から観光客が訪れる一大エンターテインメント拠点へと変貌を遂げました。

さらに、K-POPや韓国コスメ、トレンドのグルメ(チーズタッカルビやトゥンカロンなど)が次々と上陸するにつれて、訪れる層も中高年層から10代・20代の若い世代へと広がっていきました。

現在では、韓国文化の発信地としての顔を持ちながらも、ネパールやベトナム、中東など世界各国のショップやレストランが混ざり合う、ボーダレスで多国籍な街へと進化を続けています。新大久保に韓国人が集まり始めた背景には、こうした時代ごとの文化の交錯と、多様性を包み込む街の歴史がありました。