竹島の実効支配はいつから始まったのか?歴史的背景と経緯(前編)

日本海に浮かぶ島々を巡る領土問題において、「韓国による竹島(韓国名:独島)の実効支配はいつから始まったのか」という疑問は、歴史的・国際法的な観点から非常に重要な論点です。日韓両国間において主張が大きく対立するこの問題について、その起点はどこにあり、どのような経緯をたどって現在の状況に至ったのかを紐解きます。

1. 戦前の経緯と日本の島根県編入

竹島を巡る近代以降の行政上の動きとして、日本政府は1905(明治38)年1月の閣議決定により、同島を島根県に編入することを正式に決定しました。

  • 当時、日本国内では無主地(どの国にも支配されていない土地)として確認されたことを受け、国際法に則った正規の手続きを経て領有の意思を再確認したとされています。

  • これに対し韓国側では、1900年に大韓帝国が発令した「勅令第41号」によって鬱島郡の管轄区域に石島(韓国側はこれが竹島にあたると主張)が含まれていたとし、日本による1905年の編入以前から自国領であったと主張しています。

2. 第二次世界大戦後の転換点:「李承晩ライン」の設定

韓国による現在の実効支配の直接的な起点となったのは、第二次世界大戦敗戦後の混乱期、1952(昭和27)年1月に当時の韓国大統領であった李承晩(イスンマン)が一方的に宣言した海洋主権の範囲、いわゆる「李承晩ライン」の設定です。

  • ライン内への取り込み:国際法上の根拠を欠く形で一方的に引かれたこの海上境界線の内側に、竹島(独島)が強引に組み込まれました。

  • 警備隊の常駐化:その後、1954年には韓国当局が同島へ沿岸警備隊の部隊を派遣・常駐させ、監視所や灯台、接岸施設などの構築を次々と進めました。

こうした経緯から、日本側は1952年の李承晩ライン設定およびその後の武装・常駐化を「国際法に反した不法占拠」として一貫して抗議を続けている一方、韓国側は歴史的固有領土の回復および実効支配の継続として正当性を主張し続けています。

この記事の後半では、サンフランシスコ平和条約締結時における連合国側の解釈や、現代に至るまでの外交上のやり取りについてさらに詳しく解説します。

日本と韓国の間で長年続くこの領土問題において、双方の主張の根拠となる歴史的文書や国際条約の解釈にはどのような違いがあると思いますか?

李承晩ラインの設定と実効支配の開始

第二次世界大戦後の混乱期を経て、韓国による竹島(韓国名:独島)の実効支配が明確になったのは、1952年(昭和27年)1月のことです。当時、韓国の李承晩大統領は「海洋主権宣言」を発出し、国際法を無視する形で一方的にいわゆる「李承晩ライン」を設定しました。この広大な海洋境界線の内側に竹島が囲い込まれたことで、同島の周辺海域に対する排他的な管轄権が一方的に主張されることになりました。

常駐化と法的立場をめぐる経緯

李承晩ラインの設定後、韓国政府は次のようなステップで実効支配を固定化していきました。

  • 1953年(昭和28年)夏:周辺海域での事件や衝突を経て、韓国の官憲や警備隊による本格的な動きが活発化。

  • 1954年(昭和29年)6月:韓国内務部が沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したことを正式に発表。

  • 1954年(昭和29年)8月:海上保安庁の巡視船が同島から銃撃を受けたことにより、韓国側による武装警備隊の常駐が確実なものとなりました。

これ以降、韓国側は同島に灯台、監視所、接岸施設などのインフラを次々と構築し、現在に至るまで人員を常駐させ続けています。

まとめ 歴史的な経緯において、韓国側が実効支配を開始したのは第二次世界大戦後、1952年の李承晩ライン宣言および1954年の警備隊常駐以降というのが国際的な事実関係とされています。日本政府は、これらは国際法上何の根拠もない不法占拠であるとして、一貫して強い抗議と撤回を求めています。

歴史的背景において、両国間の主張や解釈のギャップはどこに起因していると思いますか?