イラン・イラク戦争はなぜ起こったのか?(前編)

1980年9月22日、イラク軍が突如として隣国イランへの侵攻を開始しました。これが、のちに約8年もの長期に及び、両国合わせて100万人近い死傷者を出したとされる「イラン・イラク戦争」の幕開けです。

中東の大国同士がなぜこのような激しい衝突に至ったのか、その背景には「領土をめぐる長年の確執」「石油資源の支配権」「1979年のイラン革命による政治・宗教的激変」という、複雑に絡み合った複数の要因が存在していました。

1. 国境の火種:シャットゥルアラブ川をめぐる対立

両国の対立の歴史的背景として見逃せないのが、イランとイラクの国境を流れるシャットゥルアラブ川の支配権をめぐる争いです。この川は、チグリス川とユーフラテス川が合流してペルシャ湾へと注ぐ、経済的・戦略的に極めて重要な水路でした。石油を輸出し、海外から物資を輸入するための生命線であるため、どちらがこの川の主導権を握るのかは、両国にとって死活問題だったのです。

1975年、当時のイラン国王とイラクのサダム・フセイン(のちの大統領)の間で「アルジェ協定」が結ばれ、一応の妥協が図られました。川の中心を国境線とすることで決着したものの、イラク側には「実質的にイラン側に有利な条件を飲まされた」という強い不満がくすぶり続けていました。

2. 石油資源の宝庫「フーゼスターン州」への野心

さらにイラクのサダム・フセイン政権には、イラン領内にあるフーゼスターン州を手に入れたいという大きな野心がありました。 この地域にはイラン有数の巨大油田地帯が広がっており、さらに住民の一部にはアラブ系住民も含まれていました。フセインは、もしこの地域を奪うことができれば、イラクの石油収入は飛躍的に跳ね上がり、アラブ世界における主導権(盟主の座)を確固たるものにできると考えていたのです。

戦争の激化と歴史的教訓

泥沼化した前線と国際社会の思惑

1980年9月にイラク軍が一方的に国境を越えて侵攻したことで始まったこの戦争は、当初サダム・フセインが目論んだような短期決戦にはなりませんでした。

  • 宗教的・イデオロギー的対立の深化: イラン側は革命直後の混乱を乗り越え、最高指導者ホメイニの下で凄まじい国民的団結力を発揮。単なる領土争いを超えた「イスラム体制を守る聖戦」として、数多くの義勇兵や少年兵までが前線へと動員されました。

  • 冷戦構造の影と兵器の近代化: 長期化するにつれ、ペルシャ湾の石油権益や周辺国の安定を懸念するアメリカやソ連、さらに欧米諸国や近隣のアラブ諸国が、イラクへの財政支援や軍事援助を強化していきました。その結果、化学兵器(毒ガス)なども投入される悲惨な総力戦へと変貌していきました。

終結と中東情勢への爪痕

1988年に国連の仲介で停戦が合意されるまで、約8年間に及ぶ死闘が繰り広げられました。両国ともに甚大な人的・経済的損害を受け、国境線は戦争前とほぼ変わらない状態に戻ったものの、得られたものは何もないまま莫大な負債と深い禍根だけが残りました。

この戦争の最大の教訓は、「国内の政治的混乱や宗教的対立を背景にした短絡的な武力侵攻が、いかに制御不能な大惨事と長期の泥沼を招くか」という点にあります。イラン・イラク戦争の未解決の緊張や経済的疲弊は、その後の1990年の湾岸戦争へと直接的につながっていくことになりました。