豊臣秀吉の天下取りを阻んだ最大の宿敵、柴田勝家

織田信長の後継者の座を巡り、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の前に最大の壁として立ちはだかったライバルこそが、織田家の重臣である柴田勝家です。信長が本能寺の変で倒れた後、清洲会議を経て両者の対立は決定的なものとなりました。

この二人の覇権争いが最高潮に達したのが、1583年の賤ヶ岳の戦いです。勝家は北陸を拠点に強大な軍事力を誇り、秀吉にとって一世一代の強敵でした。しかし、秀吉は優れた情報戦と迅速な行軍(美濃大返し)によって勝家側の隙を突き、見事に勝利を収めます。この決戦には、秀吉の有能な実弟である豊臣秀長(当時は羽柴秀長)も参陣し、多大な功績を挙げました。秀長はこの戦いでの論功行賞により、播磨・但馬の二国を与えられて数十万石の大名へと大出世を果たしています。

賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、妻であるお市の方とともに北ノ庄城で自害し、ここに秀吉の天下統一への道が本格的に開かれることとなりました。勝家という偉大なライバルがいたからこそ、秀吉の知略や組織力が極限まで磨かれ、その後の「天下人」としての地位が確立されたと言えます。

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